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文学はむずかしい。ノーベル文学賞と村上春樹

 

毎年ノーベル賞受賞者発表の季節になると、村上春樹さんの名が話題にのぼることが風物詩となりつつあります。

実は、私にとって「村上春樹が好きです」と人前で言うのは、「太宰治が好きです」と言うのと同じくらい勇気がいることでもあります。

読者のイメージが、偏った感じになってしまうからでしょうか。
両者とも時代のアイコン的存在だからこそ、なのですけれど。
けれど、今の私を形作っている大きな要素の一つは間違いなく村上春樹さんです。

彼の文学の魅力は、私にとって「喪失感」であり「孤独感」「疎外感」であるけれど、それが自身の深慮の入り口になるところかもしれません。
春樹さんの使う言葉は平易ですが選び抜かれ、読むという作業は言葉をかき分けながらその奥にあるものを探すことのように感じています。
どこか無国籍風で現実でないような村上文学に、初めて読んだ17歳からずっと魅了されています。

どうしてだろう、なぜだろう。私はどうしてこんなにも惹かれ、何に同調するのだろうか?
私の精神的成熟はその後の彼の作品たちと共にあったと言ってもよいかもしれません。
もちろん文学部だったのでその他たくさんの作家を読み、研究もしたのですけど。

以前、国際シンポジウムで大江健三郎氏が「社会に対して、あるいは個人生活の最も身近な環境に対してすらも、いっさい猛動的な姿勢を取らぬという覚悟から成り立っている」と村上文学を批判的に論じた事が話題になりました。

大江氏の言う基準が、ノーベル基準なのかは置いておくとしても。

村上文学は独自のニュアンスを保ちつつも、社会問題やスポーツの世界へも膨らみを見せて変化していきます。
村上文学を愛する者としては、移ろいも含めてその概念のすべてを受容しているのです。

文学とは大きく主張しなければならないのか
強い能動性が絶対的に必要なのだろうか
小説の持つ余白が道しるべとなるのではなかろうか
…などと思いつつ。

何かを受賞する事は、とても喜ばしいことです。
でもその一方で、受賞とは関係なく優れた価値が沢山あるのだなあ、と改めて思ったノーベル受賞発表の日でした。

ちなみにですが。
大江健三郎さんの、その強い社会的な視点で捉えた作風も好きです。
感情を揺さぶるような豊かな表現力、日本の国に生きる強い自覚。
魂の救済にまで昇華した作風に影響されてサルトルを読み、友人たちと話したのを懐かしく思い出しました。
両方とも好きな作家だけに、この論争が気になるのですよね。