みんな「一生の友だち」が欲しい
誰もが「一生の友」「親友」「本当の友達」が欲しいと思っています。
本当の私をわかってくれて、絶対に私を裏切ったりなんかしない。困ったときには必ず駆けつけてくれて、危機一髪で助けてくれる。
朝まで夢みたいな未来像を語り合ったり、弱い私に強がらなくていいんだよ、なんて泣かせたり。
親や先生の思い出話でしょうか。
それともドラマや漫画の刷り込み?
そんなことに憧れながら我に返ると、ほど遠い現実だったり。
教室で一緒に行動する友達はいるし、お弁当を食べる友達もいる。でも、親友と呼べるほどの友達はいない…。
一昔前の「白馬の王子様」を待ち続ける乙女のごとく、ありのままの私を受け止めてくれる「幻の親友」を待ち続けている人のなんと多いことか!
王子様(理想の恋人)はいない現実はとうのに昔に当たり前になったのに、なぜか「理想の親友」だけは今でも信じられているのです。
友達は大切、でも一緒にいると何だか疲れてしまう。
皆といたいし、独りにもなりたい。
この矛盾は、もしかして思い込みに囚われていることが理由かも?
「周りの目=世間」とは?
「空気を読む」「KY」など、ここ数年で同調を強いられる言葉が当たり前に使われるようになりました。
これは人の目が気になることから来る、日本人独特の感覚なんだそうです。
日本社会では「あ・うん」の呼吸を非常に求められます。
一歩先を読め、和を乱すな、他人に迷惑をかけるなと育てられてきた暗黙のルールが、まさにそれです。
その「世間」に対して後に生まれた存在が「社会」だ、と著者の鴻上さんは説きます。
この本では生きる場所を「世間」と「社会」に二分して考えるところが大変面白いのです。
だから「世間」と「社会」との関わり方を使い分けることによって、よりラクに生きることが出来るよと道案内をしてくれます。
本書の著者、鴻上尚史(こうかみしょうじ)さんのお名前は、40代以上なら非常に聞き覚えがあるはずです。
現在は作家、演出家としてコラム執筆やTV(NHK「COOL JAPAN」現在放映中)などでご活躍中ですが、なんと言っても真骨頂はラジオ!鴻上さんのオールナイトニッポンは当時の10代がこぞって聴いていたものです。
その時からずっと10代の悩みを聴き続けて30年だからこその、鴻上さんの著書です。
悲鳴のようなティーンエイジャーの心の叫びを知っているから「空気を読んでも、従わなくてもいいんだよ」という言葉が出てくるのです。
「同調圧力」が敵の正体だった!
本の中では、息苦しさは世間との関わり方にあると考えています。
世間の縛りが、友達を中心に自分を考えてしまう。なぜなら「みんなと同じであること」という無言の圧力がそこにあるから。だから自分の個性は取りあえず消しておこう、と思ってしまうわけです。
その縛りが自分の”生き苦しさ”につながるのですが、正体は「同調圧力」。
みんな一緒がみんないい、みんな仲良く、みんな友だち、という日本固有の呪いです。
多様性は、まだ遠い
日本に根強く残る「同調圧力(みんな同じく)」ですが、昔からのムラ意識=生命維持のための共同体は今は必要ありません。
現在の集団の機能は、群れることで「不安」から逃れるための共同体です。
環境は充分昔と変化しているのに、心の根っこの部分ではムラ的な同質性が根強く残っている…これが現状であると言えます。
しかしその同質性で悩む人々が多いということは、同質性を必要としない人が沢山増えてきたということを意味しています。
価値観が異なる者、多様な価値観同士が同時に存在する社会、それが現代の社会であり世間です。
だから「気の合わない人とも一緒にいるやり方、傷つけ合わずに並存する方法を作ろう」が、本書からのメッセージです。
これはなかなか難しいことです。
気が合わない、好ましくないと感じるのは、感情の中でも最も厄介な「負の感情」の部分。この負の感情と言われる「恨み・反感・嫉妬」は、自分自身でコントロールすることがとても難しいのです。
方法としては「やりすごす」「あえて近づかず、こじれるリスクを減らす」など提案がありますが、結局は自分の中でどう処理するか、一人ひとりのパーソナルな部分の問題です。
だからなかなか同調圧力が無くならないのかもしれません。みんな一緒の方が、圧倒的にラクなのですから。
私は私のやり方で賢くやり過ごす
「多様性」や「個を大事に」と叫ばれて久しい昨今です。そろそろ同調圧力も必要ないと、みんな気が付いているのではないでしょうか?ちょうど今は過渡期なのではないかという気がしています。
でももう少し、時代がこうした考えに追いつくまでまでの処置として「たくさんのコミュニティに関わって生きていく」のはいかがでしょうか。
とかく世間は狭いもの、そしてどうしても閉ざされがちです。だから飛び出したり抜けたりするのではなく、複数の世間に所属するのです。
ひとつの場所で息苦しくなっても(自己否定)、他に楽しく過ごせる居場所があるなら(自己承認)、そこで生きることが出来ます。人はやはり社会的に認められて充実した気持ちになるからなのですね。
ついつい「人とのつながり」に甘い幻想を抱いてしまう私達ですが、なかなか自分というものをすべて受け入れてくれる相手に出会うことは難しい。
人は絶対受容を求めがちですが、価値観が100%同じということはありえません。もし、まるごと同じだとしたら、それは自分しかありません。
だから「友だち」は自分と同じ価値観を持つ人ではなく、信頼できる他者という目線でみると、もっとラクに考えられるよと、思うのです。
そして他者との距離感についてちょっと敏感になることが、いまよりラクな人間関係を築く手助けになるのではないでしょうか。